誤解されるということ。

《過去にメモったまま放置していた文章をアウトプットしとこうシリーズ⑭》

誤解されること、真意が伝わらないことは、

時に悲しいこととされる。

 

伝わっていないなと感じて

そうじゃないんだ!と粘ってみることもある。

その流れでさらに満ちる体験ができたりする。

 

しかし同時に、

100%伝わることなどなく、

逆に100%理解できることもない、という視点もある。

全ての人が、それぞれの視点を持っているのだから。

それは個体として分離している醍醐味でもある。

 

そうなると、伝わるか伝わらないか、

それ自体は問題ではないということが見えてくる。

 

伝わらなかった結果、

もしくは、伝わった結果、

相手の内側で何が起き、また起きなかったのか。

それが自分にとって不都合であれば悲しいし、

都合がよければ嬉しい。

 

自己都合にそぐうか、そぐわないか、

それを自分の内では問題と捉えているのだ、ということ。

 

その都合の中に、

上下や優劣、善悪がないか、見てみるといい。

そしてそれらがあった時は、

それを責めるのではなく、

あったんだね、と気付くだけでいい。

 

自己の都合がなければ問題もない。

だから完全に自己の都合を滅するもよし。

(玄人向け(笑)。)

 

自己都合の中にある観念を手放し、

より自由に、より軽やかに、

自己都合を遊ぶもよし。

 

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